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9 - Blame
出会った時
いつか話してくれた彼女の言葉はよく覚えている。
だからこそ
あの言葉が最後になるとは思っていなかった。


―「Parallel World」

 最初に飛び込んできたのは白い天井だった。
 次いで鼻をつく薬品の臭いに、思わず顔をしかめる。
 間仕切りのスクリーンと隅に置かれたサイドボード、小物以外に色のないその場所は病院の個室だった。
 蛍光灯の点いていない部屋は窓から差し込む日の光で光源をとり、吹き込む風で揺らめくカーテンが波を打つ。その流れは、時が止まったように静止した室内に動きを与えてくれる。
 見知らぬ場所で呆然と横たわる龍輝は驚いて上体を起こしたが、腰の痛みに制止され思わず呻く。
 「いっ…―」
 痛みを堪えながらゆっくりと息を吐き、腰に触れると、刺された傷は処置が施され、ガーゼがあてられていた。触れた右手の静脈にはチューブが繋がり、横たわっていたベッドの脇に立つ点滴装置に続いている。
 本から得た少ない知識を漁り、ここが病院という施設の中であると理解した龍輝は、警戒しながらベッドを降りて立ち上がった。
 刺された傷は思ったより深かったのか、立つ事はできるが支えがないと歩くことは難しい。
 手すりと点滴装置のポールに掴まりながら窓に近づき、波打つカーテンをよけて外に顔を出した。
 上階から見下ろす庭園は人為的に植えられた草木が並び、丁寧に切りそろえられている。その間を縫うように延びた道にはタイルが敷き詰められ、視界の隅で初老の女性が老人を乗せた車椅子を引いていた。
 眼下に広がる庭園に、龍輝は苦虫を噛み潰したような顔をして目を背ける。
 人里離れた自然の中で暮らす龍輝にとって、街という存在は空間の繋がった別世界そのものだった。
 「(…残りの人生は箱の中、か)」
 本を通じて知った別世界の掟では、罪を犯した者は監獄に収容され、厳しい監視の下長い時間をその中で過ごす。
 重すぎる罪を犯した場合は掟に従い、死を以って償う。
 自分が間違いなく後者の罰を受けると確信している龍輝は、覚悟を決めたように静かな溜息をついた。

 背後で静かに引き戸が開き、緊張と警戒で、刹那痛みを忘れる。
 首をを動かし入り口を注視すると、床とスクリーンの間に女性の靴が見える。黒いパンプスの爪先を向けたその女性は、躊躇なくカーテンを開けると驚いた様子で龍輝を見た。
 「あら、早いお目覚めね」
 流暢な日本語だが話し方に異邦人独特の訛りが混ざっている。白いワンピースに淡い桃色のボレロを羽織り、脚線を強調させるジーンズを履いた女性的な格好はまるでどこかのモデルのようだ。銀髪と見紛う淡い青の髪は団子状にまとめられ、わざと投げ出した毛先が歩くたびに跳ねる。
 街を歩けば誰もが振り向きそうな美しさを纏い、女性は警戒する龍輝に微笑んだ。
 「調子はどうかしら」
 「…誰だ」
 「随分なご挨拶ね」
 お見舞いに来てあげたのに、と困ったように笑うその顔に困った様子は微塵もない。
 「あなたをここに運んだ人と言えばいいのかしら。それとも違う事?」
 「それも含めて全部だ」
 「せっかちさんは嫌われるわよ」
 「…余計なお世話だ」
 積まれていた簡素な椅子を下ろし、女性は静かに座ると荷物を膝に乗せた。
 「そうね、どこから話そうかしら…」
 最初に驚いた時以外に、女性の顔から笑みが消えることはない。その貼り付いたような笑顔を不気味に思いながら、龍輝は窓に背を向けた。
 「まず、私の名前ね。私は李美龍。海外でモデルやってたの」
 「…へえ」
 「こっちに来て色々困ってた時、萌葱と知り合ったわ。彼女は沢山の事を教えてくれた」
 「萌葱だって?」
 萌葱の名前を聞き、龍輝の関心が美龍に向く。
 「それは水神村にいた入間萌葱の事か?」
 「そうよ。村の事もあなたの事も教えてくれたわ」
 「…村の連中は思ったより口が軽かったんだな」
 閉鎖的な村だから口が堅いというのは龍輝の思い込みだったようだ。
 半ば呆れた溜息をつき、点滴装置のポールを支えにベッドに手をかけた。
 開いたままの窓から入り込む風が緩やかにカーテンを浮かせ、龍輝の背中をなでていく。その感触さえも傷に響いて動きを鈍らせる。
 「その様子だと、萌葱が死んだ事も知って」
 「ええ、あなたが殺した事もね」
 言葉を遮り肯定した美龍の声には糾弾の意思がない。龍輝は動きを止め、ベッドの向こう側で静かに笑む美女を訝しむように見つめた。
 貼り付いた笑みは瞬き一つ返しただけで詮索を許さない。
 「僕を助けてどうするつもりだ?」
 然るべき檻に突き出すためか、それとも私刑と称し、生き殺しにでもされるのか。いずれにせよ、善意などという明るい理由でない事は明らかだ。
 今にも噛み付きそうな様子で睨む目の前の男を宥めるように、美龍は翡翠色の目をわずかに細めて答えた。
 「想像してるような事はしないから安心して。あなたにはまだやってもらう事があるから」
 「さも今までの行動を見てきたかのような言い方だな」
 「どうかしらね」
 返答をはぐらかし、中腰のまま睨む龍輝に座るよう促す。
 従うつもりはなかったがぶり返す痛みにおされ、龍輝は仕方なくベッドに腰を下ろした。
 「あなたは私を敵と思うでしょうけど、これだけは覚えておいて。私はあなたとあなたを知る人、そのどちらの味方もしていない」
 「お前が言う、やってもらう事が済むまでは、か」
 美龍は笑顔のまま答えなかった。

 回診にやってきた看護師は龍輝の快復の早さに驚いた様子だった。
 怪我が完治するまで主治医と看護師に従うよう釘を刺してから、美龍は病室を後にした。
 顔を上げ院内の白い廊下に目を向けると、部屋一つ分の距離を隔てて一人の男が壁にもたれかかっているのが見える。
 「回診ですって。もう少し早かったらお見舞いできたのに」
 「そんな理由でここに呼んだなら帰るぞ」
 「違うわよ。彼と引き合わせるために呼んだんじゃないわ」
 相手をからかうその仕草はいくらか親しげである。
 眼帯の男は腕を組み、不機嫌そうにそっぽを向いた。
 「立ち話もなんだし、お茶でも飲みながらゆっくりしましょ」
 ショルダーポーチを持ち直し、突き当たりのエレベーターへ歩いて行く。
 美龍の行動に促され、男は壁に預けていた背中を離した。

 「生き残りも、あなた一人になってしまったわね」
 病院の一角にある喫茶店で腰を落ち着けた二人は、どちらからともなく話を始めた。
 テーブルの端に置かれた小さなメニューを眺め、奥のカウンターで肘をついていた店員に声をかける。
 「ご注文はお決まりですか?」
 「アメリカンを二つ」
 「かしこまりました」
 ショートボブの似合う店員が注文をとり、愛想よく笑って奥のカウンターへと戻っていった。
 「鬼子は村を飲み込み鬼神に、か」
 「なあにそれ」
 「村の伝承だ」
 「その伝承は初耳ね」
 「竜飼の家系だけに伝えられてきたからな」
 そう、と息を吐いて店内を見回す。
 メニューは飲み物や軽食中心だが、簡素な長机やパイプ椅子を置いただけの狭い空間は喫茶店というより食堂である。
 看護師や患者が通り過ぎるせわしない雑音が音楽代わりのこの場所では、誰かの見舞いに来た客や、退屈そうな店員以外に人はいない。
 自身もまた停滞した時間に埋もれた景色の一部であると知覚しながら、美龍は話の口火を切った。
 「けど、その伝承はまだ成就していないんじゃないかしら」
 「何?」
 「蒼鵞、あなたが残っている」
 名を呼ばれた男は一見動じていない様子だが、その目には動揺が見え隠れする。
 「伝承の成就は関係ないわ。あなたには龍輝と対峙する義務がある」
 「知っている」
 「けれどあなたはそれを放棄した」
 おっとりした声だが、放棄を確信した物言いは蒼鵞への明確な怒りがこもっていた。
 「…俺は放棄した覚えはない。何故そう言い切る」
 「立樹君を殺したのはあなただと言う事を浩一君は知らなかった。それを龍輝が殺したと嘘ついて隠した」
 「それは」
 「何故龍輝ではなく立樹君を殺したの?彼に復讐の意思がないことを知っていたのだから、わざわざ連れて行かないであなた一人が出向けばそれで終わりだったはずでしょう?」
 「…」
 正論である。
 「考えられるのは二つ。最初から彼を殺すつもりがなかったか、自分以外の生き残りを始末する為か。どちらにしても、その為に復讐の約束を違えたあなたを、私は許さない」
 タイミングが良かったのか悪かったのか、店員が気まずそうな様子でカップを盆に乗せてやってきた。その愛想笑いがどこかひきつっている。
 それとはお構いなしに美龍もまた愛想笑いで会釈を返す。
 「お待たせいたしました」
 七分目まで黒い液体が注がれたカップを慎重に置くと、店員は逃げるように立ち去っていった。
 後に残されたコーヒーの香りが二人の鼻をくすぐる。
 しばらくそれに目を落とした後、蒼鵞から先にコーヒーを手にとった。
 「…あの二人を尾けていたとは悪趣味だな」
 一言毒づいてからコーヒーを口に含む。
 「お生憎様」
 美龍は浅く息を吸い、添付された砂糖の封を切り黒い液体の中へ流し込む。
 「それで、俺に恨み事を言うために呼んだのか」
 「最初に言ったわよ。最後の生き残りとして彼と対峙する義務を果たしなさいって」
 「断ると言ったらどうする」
 「あなた一人廃人にすることくらい、簡単な事よ?」
 砂糖をかき混ぜる手を緩める事なく、日常会話をするように廃人の一言を突きつける。
 蒼鵞は眉をひそめ、今自分がいる病院が彼女の庭であることを思い出す。
 選択の余地は始めからなかったのだ。

 「一つ聞きたい」
 「なあに?」
 蒼鵞に尋ねられ、手にしたコーヒーカップを口元で止める。
 「何故龍輝を入院させたんだ?」
 あら、と困ったように笑って美龍はカップを置いた。
 「あなたに義務を果たさせるためと言えばいいのかしら。そのまま死なせても構わなかったのだけど」
 蒼鵞は性悪女と言いかけた自分の口をコーヒーで塞いだ。
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