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Gensou-roku Novels Archive log : Copyright(C) 2010-2022 Yio Kamiya., All rights reserved. 無断転載/改変禁止

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Epilogue
三月十七日。

 春一番が過ぎ、ようやく暖かくなり始めても海沿いは未だに寒さが残っていた。
 さほど遠くない場所に見える港からは凪いだ海を滑るように客船が出港し、残った人々が船に向かって手を振っているのが見える。


 影が霞む程の薄曇の空は冬の気配を残しているが、時折吹く風の冷たさは冬のそれよりも暖かい。
 歩いている人々の服装にも春らしい彩りがちらほらと見える中、黒地のモッズコートに濃いグレーのデニムジーンズ、更に軍靴をというほぼ黒尽くしの男が、入り江のフェンスに寄りかかりぼんやりと景色を眺めている。
 港を離れる客船を無関心に見送りながら、男は懐から煙草を一本取り出してくわえるとライターの火を点けた。
 「待たせたな」
 手で風を避けながら煙草に火を近づけようとして、左耳から声がぶつかった。
 黒尽くしの男、もといリオが青黒い瞳をそちらに向けると、最初に目に入ったのは小学校に上がって間もないほどの女の子だった。ふわふわの耳あてが可愛らしく二つ結びにした髪を避けて彼女の耳を守り、白いコートと薄い桃色のスカートが少女らしさを一層引き立てている。
 だが先程聞こえた声は、女の子とは程遠い男の声である。
 その小さな手をひいて、濃い緑色のニットの上に薄いブラウンのジャケットをはおった鏑木が立っていた。
 「悪い、丁度家に姪が来ててな。連れてけって聞かなくて…」
 ばつが悪そうに頭をかき、察してくれと言わん様子で目を泳がせる。リオはあきれた様子で溜息をつくと、ライターの火を消して着火していない煙草を箱に戻した。
 「…子供のお守りをしに来たんじゃないんだが」
 「変なところで頑固なもんだから…。大事な話をしにきたってきつく言ってあるから気にしないでくれ」
 ほら挨拶しなさい、と小さな頭に手を置くと、少女はリオの顔を見上げて一瞬不思議そうな顔をする。あどけない顔は鏑木家とは別の血筋の方が濃いのか、鏑木本人とは似つかない。
 「鏑木あやかです」
 物怖じしない幼い声で自分の名前を答え、丁寧にお辞儀をするともう一度リオの顔を見て反応を待つ。リオが対応に困っていると、鏑木が代わりに偽名で紹介した。
 思いつきで考えたのか、その偽名を聞いたリオは鏑木のセンスを疑った。

 余談だが、出された偽名は『ヤマダ・タロウ』である。

 「…暁から聞いた時は信じられなかった」
 フェンスから離れた散歩道沿いにあるベンチに座り、買ってきた缶コーヒーに目を落としたまま、どちらからともなく話を始めた。
 「俺も暁も、お前は死んだと思っていたよ」

 * * *

 二月二十四日。

 暁は龍輝の住んでいた廃工場に足を運んでいた。
 「(あいつももう年だからなあ…。家に連れて行けたら一番良いんだけど)」
 今は亡き龍輝に代わり廃工場を守っている猫の様子を見に、遠いにもかかわらず、数日おきに訪れては世話をしていた。
 草むらを掻き分け工場の中に入り、猫がいつも眠っている住居スペースを覗き込んでみると、寝転がっている猫の隣にもう一つ影が見える。
 「(人…!?)」
 慌ててコンテナの陰に身を隠そうとしたが、隠れるより先に相手の方が暁の姿を視界に捉えたらしい。
 「暁?」
 聞き覚えのある声は驚いた様子で暁の名を呼んだ。
 その声に暁もまた驚いて後ろを振り返る。
 四肢を投げ出して横たわっている三毛猫の背中に右手を沿え、暁を見る明るい髪の男は紛れも無くリオだった。髪の色に対し、昼間の中に燻る闇そのものであるかのように黒で統一された服装は、かつて暗殺者だった頃の所以だろうか。
 猫に触れる為に革手袋を外した右手だけが、彼の内にある人らしさを残していた。
 「リオさん!どうしてここに…いやそれより、生きてたんですね!?本物ですよね!?」
 「れっきとした生身だ。暁こそどうしてここに…」
 感極まり騒ぐ暁に対し、冷静だがややうろたえた様子で暁を見上げるリオ。
 「あいや、俺は猫の様子を見に―」
 高揚が残りつつも猫の事を口にして、改めてリオの前にいる猫の様子がいつもと違う事に気がつく。
 横たわっている三毛猫は暁に背を向けたまま、ぴくりとも動かない。ぴんと立った三角の耳も後ろに倒す事はなく、リオの方を向いている。
 「あれ、耳は遠くないはずなのに」
 コンテナの隣に荷物を下ろし、猫の背中側にしゃがみ込んで頭を撫でる。それでも猫は何も反応を返すことはなく、温もりの消えた、剥製に触れるような硬い感触だけが暁の掌に伝わった。
 「え…」
 一瞬、何があったか飲み込めず手を止める。視界の隅でリオの髪が揺れ、静かに顔を横に振っているのが見えた。
 手に触れる猫の冷たさとリオの反応で、暁は猫が旅立った事を理解した。
 「…そっか。何年もここを守ってくれてありがとな」
 涙ぐむ暁を見やる事もなく、リオは添えていた右手をそっと離し、外していた革手袋をつけた。

 草木が生い茂り敷地の境目は曖昧だが、朽ちたフェンスの内側ならば工場の敷地内にあたるだろう。
 葉のない銀杏の木の根で盛り返され、剥き出しになった土に猫を埋葬する頃には日が傾いていた。昼間の明るく日が差し込んでいる時に訪れてもどこか不気味に映る廃工場の内部は、夕焼けに照らされ不気味さが増している。
 かつて龍輝が住んでいた頃に使われていた家具も随所に錆びや腐敗が目立ち、リオが五年前訪れた頃に見た幻想的な面影はほとんど残っていなかった。
 廃工場の扉に寄りかかり、暁が掘り返した土を被せる様子を見守りながら、リオは懐から煙草を一本取り出し口にくわえた。
 ライターで火を点けポケットにしまうのと同時に、暁の方も被せた土をかため終わって立ち上がった。
 「暁」
 立ち上がるのを見計らって声をかけると、緩んだ涙腺がまだ戻らないのか、目が潤んだままの暁が振り返る。
 ライターをしまった方とは反対側のポケットに手を入れ、取り出したものを暁に向かって放り投げた。
 投げられたそれは放物線を描いて暁の手中に収まり、適度な重みを残す。
 「悪いが、それを志島さんの墓に持って行ってくれないか」
 使い込まれた革のケースに納まった刃渡り十センチ程のナイフは、四ケ月前にリオが志島から借りたものだった。
 記憶を取り戻したあの日、志島は結局ナイフを受け取らなかった。『俺にはもういらないものだ』と言って突き返した本当の理由は分からずじまいだ。
 「え、自分で持って行かないんですか?」
 「指名手配されてる奴が墓参りなんて出来ないだろ。無理なら警察の従兄にでも頼んでくれ」
 ああ、と腑に落ちて納得した様子で暁はナイフに目を落とす。手中のナイフは革のケースの隙間から夕焼けの光を鋭く反射し、暁の頬を照らしている。
 その様子を見て一段落ついたように煙を吐くと、リオはその場を去ろうと足の向きを変えた。
 「あ、り、リオさんまだ聞きたい事が色々―」
 「これから行くところがあるんだ、すまないがまた今度ここに来た時に頼みたい」
 暁の制止も叶わず、リオは言葉を遮って廃工場の暗闇へと消えていった。緩やかに吹く風が枯れた落ち葉を転がし、遠くで敷地外の針葉樹を揺らして暁の耳に届いた。

 * * *

 三月十七日、海浜公園。

 「暁から預かったナイフは頼まれた通り墓前に供えてきた。志島さんに親戚はいないらしいから、誰かが世話をしに行かないといけないな」
 眼前に広がる海ではない、どこか遠くを見るように目を細めて鏑木は言った。
 二、三度瞬きをして目を閉じ、数拍の間を置いて目を開け、視線だけリオに向けてもう一度口を開く。
 「さて、聞かせてもらおうか。あの火事からどうやって生き延びたのか」
 言葉は警官特有の鋭さがあったが、向けられた視線はそれよりも柔らかい。警察としてではなく、鏑木一個人として会いに来たのだと理解したリオは、出かかった警告の言葉を飲み込んだ。
 「……何故生き延びたか、俺にも分からない」
 慎重に言葉を選びながら、三ケ月前に別れてからの出来事を切り出した。
 「あの後意識を失って、気が付いた時には、志島さんのテントの中にいた。火事からそう日数は経ってなかったはずだ」
 視線を手の中の缶コーヒーに落とし、刹那思考を巡らせる。鏑木は口を挟んだりせず、話を黙って聞いている。
 リオの視界の隅ではあやかの小さな足がぶらぶらと揺れている。彼女はリオを気に入ったのか、鏑木ではなくリオの隣に座って温かいココアを飲んでいた。
 「中毒もほとんど快復して、今のところ後遺症もない。肩は…脱臼したままだったが。持ってたはずの銃も無くした」
 現場に残っていなかったかリオが尋ねると、鏑木は首を横に振って答えた。

 リオは、龍輝が自分を犠牲にして助けたのではないかと思っていた。
 目が覚めた後、何度呼びかけても返事はなく、手の中に銃が現れる事もなくなった。文字通り、彼は何一つ残さず消えてしまったのだ。
 何故消えてしまったのか。
 何故自分を助けたのか。

 答える声は、どこにもない。

 「何故生きているのか何度も問いかけた。誰かに聞いて分かるなら早い話だが、その誰かはいない。だったら、分かるまで生きててやろうと思ったんだ」
 五年前、志島夫婦に助けられた時も同じような事を考えていた気がする。
 その時二人は何と言っていたか、答えはリオの未だに思い出せない記憶の中にある。
 しかし、消えてはいない。それだけが救いだと言えよう。

 「…まあ、生き延びた本人が覚えてないんじゃ誰も分からないな」
 しばらく物思いに耽った後、鏑木は吹っ切れたように息を吐いて顔を上げた。突き詰めても分からなかった事は匙を投げるタイプらしい。
 今のリオには、逆にそれがありがたかった。

 「とりあえず、生きて話が聞けただけでも俺は十分だよ。これで警察やってた時の肩の荷が下りた」
 「やってた時?」
 怪訝な顔で鏑木を見やる。
 「暁から聞いてないか。火事の一件でクビになったんだよ」
 他人事のように言い捨てて、鏑木は残った缶コーヒーの中身を飲み干した。缶を軽く振り中身が残っていないのを確認してから、捨ててくると言い残してゴミ箱を探しに立ち上がった。
 その行動の早さに呆気に取られながら、リオは鏑木を目で見送り視線を元に戻した。
 眼前に広がる海の上をウミネコが飛び交い、ついさっき港を離れた客船が遥か遠い点となって見える。足に肘をつき、感慨もなくその風景を眺めながら溜息をつくと、視界の隅からあやかが子供用のカメラを持ってフェンスの方へと駆け寄っていった。
 リオからは見えないが、フェンスの柱の隙間にうまくレンズを通して写真を撮っているらしい。
 海の風景を何枚か撮った後、満足げな笑みを浮かべてベンチの方へ戻ってきた。
 「あの」
 戻る途中で何かを思いついたのか、あやかはリオの前で立ち止まった。なかなか戻ってこないのをいい事に煙草を吸い始めていたリオは、既に火のついた煙草をくわえたままあやかの方を見た。
 肘をついて座っているからか、立っているあやかと目線の高さが同じになる。
 「お兄さんの目、きれいだから、写真にとってもいいですか?」
 顔のパーツは鏑木に似ていないが、勝気な目は確かに鏑木の家系を継いでいると思う。純粋無垢な瞳は青黒い目を捉え、じっと返答を待っていた。
 「…写真は苦手なんだ」
 少しの間を置いて少女から目を逸らすと、くわえていた煙草を離して灰を落とした。顔を見ずともあやかがしょんぼりとうな垂れている気配が伝わる。
 立場上、写真を撮られては不味いというのが最大の理由だが、写真が苦手というのも一応事実だ。
 「あやかちゃん、お兄さんは写真撮られるの嫌いだから無理言っちゃだめだよ」
 遠目から様子を察したのか、戻ってきた鏑木があやかを宥める。缶を捨てに行ったついでに買ってきたのか、保温性の高い紙コップに入ったミルクティーを二つ手に持っている。
 『写真を撮られるのが苦手』というのは、断るのに都合のいい常套句だとリオは改めて思った。
 「それで火事の事なんだが」
 持っていたミルクティーのカップをあやかに渡し、もう少しでお話終わるからと頭を撫でてからベンチに座らせると、中断していた話を再開した。
 「…あの火事に、お前がいた痕跡はどこにもなかった。タンクの穴も錐で開けたものになっていたし、志島さんの遺体は損傷が酷すぎて弾痕などは特定されていない。建物はほぼ全焼したから段ボールも何も全部燃えかすだ。あの場にお前はいなかった事になっている」
 暁と共にリオの存在を訴えたが、物理的な痕跡がない為に虚言として処理されたらしい。個人の勝手な行動と嘘の情報提供をしたとして警察をやめさせられたのだと、鏑木は溜息混じりに言った。
 「あるいは、元々警察には向いてなかったのかもしれないな。辞めた時はすっきりした」
 遠くの海を見つめる鏑木の目は、曇りも未練もなかった。
 それを横目で見やり、リオは短くなった煙草を中身の残る缶コーヒーの中に落として消火した。

 その行動をあやかに見られ。鏑木に咎められたのは言うまでもない。

 * * *

 散歩道の背後にある中央広場に設置されたゴミ箱に缶を捨て、広場の中心に立つ時計を見ると夕方をまわっていた。
 真冬よりずっと長くなった日照時間は時折時間の感覚を錯覚させる。リオは体内時計のずれを知覚しながら、二人のいるベンチに戻ってきた。
 鏑木は慣れた手つきで子供用カメラを操作している。その様子を、あやかが紙コップに入ったミルクティーで手を温めながら見ていた。遠目から見る二人は叔父と姪という関係より親子に近い。
 刹那、記憶にしまわれた父と幼き自分の姿を重ね、存在しない思い出を瞼の裏に残して振り切る。
 調整が済んだのか、鏑木はシャッターのボタンらしき部位を押して写真が撮れるのを確認してから、あやかにカメラを返した。それを受け取ったあやかはとても嬉しそうに満面の笑みを鏑木に向ける。
 子供の勘か、ふと左を向いてリオに気がつき、ベンチの背もたれに体をよじらせる。あやかの行動でリオに気がついた鏑木もまた、ベンチの背もたれに肘をついてリオの方を見た。
 「おかえりなさい」
 先ほど見えた笑顔ほどではないが、どこか嬉しそうな様子でリオを迎えるあやか。その目には何かを期待した気配がとれる。
 「とりあえず話は済んだし、あやかがどっか行きたいらしいから観覧車でも乗ってくるよ」
 あやかの期待はそういう事だったらしい。
 「…子供のお守りをしに来たんじゃないと言ったはずだが」
 リオの頭に、親馬鹿、という言葉が浮かんだ。叔父と姪の関係ではあるが、鏑木は自分が父親であるかのように姪が可愛くて仕方ないようだ。
 「そう言う事くらい分かってるから誘うつもりはないさ。だから今日はこれで解散ってところなんだが」
 「が?」
 鏑木はあやかに何かを頼むと、鞄から一通の手紙を取り出した。空の色によく似た薄い青の封筒に緑色の星型のシールで封がされ、右下には子供の文字で「紗希より」と書かれていた。
 「調査してた時にお前に渡してくれって頼まれたんだ。ちゃんと読んでやれよ」
 志島夫婦の近所に住んでいて、いつも声をかけてきては楽しそうに学校の話をして笑っていた少女の姿を思い出す。あやかから手紙を受け取り、思わず懐かしさで目を細める。
 「それじゃ、俺は行くよ。たまには暁の家に顔出しに来いよ」
 鏑木が立ち上がると、それにならってあやかもベンチから降りる。ばいばい、と小さな手を振り、もう片方の手をひき「またな」と言って二人は人ごみの方へ歩いて行った。
 立ったままその様子を見送ると、二人が見えなくなる前に視線を手紙に戻し、しばらくの間を置いて手紙をポケットにしまいフェンスの方へ歩いていった。

 封筒と同じ色をした空は雲一つなく、水平線に近づくにつれ色が薄く透明になる。
 空の青を吸い上げたように濃い海の色は、リオがいつか見た夢の中に似ている。
 人通りの少なくなった散歩道は雑踏よりも小波の音が強くなり、淡く漂う磯の香りが追憶を促す。
 おもむろにフェンスに肘をつき、両手で銃を握る形を作る。空気のグリップを握り、目線を合わせて狙撃の体勢をとる。手の中には何もなく、水平線で区切られた空と海が覗き込んでいた。

 少しの間を置いて静かに体勢を戻すと、人の少ない方へ歩き出し風景に溶け込んでいった。
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