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7 - place
十月五日。

 「兄ちゃん!リオの兄ちゃんじゃねえか!」
 公園で顔を洗っていた志島は、リオの姿を見るなり大慌てで走り寄ってきた。
 その目には涙が溜まっているのが見える。
 「良かった…!死んじまったんじゃねーかってずっと心配してたんだぜ」
 「…すいません、でした」
 皺だらけの顔を更に皺くちゃにして泣く志島を前に、リオはただ謝るしかできなかった。


 濡れた袖から、彼がどれだけ心配し、送り出した事を後悔したかさえ推し量れそうな気がする。
 「何があったか色々聞かせてくれよ。今日はうまいもんもらって来ねえとな……っと、そっちの兄ちゃんは?」
 リオの袖を引き、テントに入ろうとした志島の目に暁の姿が飛び込んできた。
 「初めまして、瀬戸内と言います」
 道路の隅に車を停め、運転席から出てきた暁が二人に追いつく。
 ジャケットを羽織り、ポロシャツにスラックスという、幼い顔に似合わぬ格好の暁をしげしげと観察しながら、志島は貫禄ある仕草で軽く会釈した。
 それに合わせて暁も会釈を返す。
 「あんたが兄ちゃんを助けてくれたのか?」
 「どちらかというと、助けられた方ですけどね」
 そりゃ、リオの兄ちゃんの方が強そうだもんなあ、などと言いながら顔を拭い、ようやく志島の涙が引っ込む。
 暁は率直な感想に苦笑いした後、簡単に自己紹介した。
 勤務先を聞いた志島はかつてそこのお得意だったらしく、良くしてもらっていた担当が今どうしているか等、知り合いの現状を尋ねては一喜一憂していた。
 その間、リオは置いてけぼりになっていたのは言うまでもない。

 二人でひとしきり盛り上がった後、水神村に出発した後の出来事を話した。
 怨霊や龍輝の事、女の事は伏せ、事前に家で打ち合わせた通りのシナリオを語る。
 「へえ…そりゃまた奇跡みてえな巡り合わせだったんだなあ」
 遭難から生還までの作り話を聞き終わった志島は、よく出来たドキュメンタリーを見終わった時のような顔をして溜息をついた。
 作り話に後ろめたさがないと言えば嘘になるが、遭難したのは事実だ。
 「俺からも礼を言わせてくれ。助けてくれてありがとうな、暁の兄ちゃん」
 とんでもない、と暁は手を振って謙遜した。
 「ところで……その様子だと、暁の兄ちゃんも事情は知ってんのか?」
 「多少は」
 目配せすると、暁はうんうんと頷いて肯定する。
 「そうか。あれだもんな、一緒に山登ってくれる仲間が増えるのはいい事だ」
 「…その例えだと巻き添えでは?」
 「細かいこた気にすんな」
 誤魔化しのつもりか、リオは背中をバシバシと叩かれた。相変わらず痛いその力加減に若干慣れつつあるという事は、背中の皮膚が厚くなったのだろうか。
 「そんで、収穫はどうだったよ?」
 「収穫どころじゃないでしょう。志島さん、話聞いてました?」
 実際は大きな収穫があったわけだが、それを話せばややこしくなる。
 「聞いてた聞いてた。まあ、あそこから帰ってきただけ儲けもんだな」
 「…なんか漫才見てる気分になってきました」
 「居た堪れなくなるからやめろ」
 単純に興味がないだけなのか、あるいはリオの事情が特殊だからなのか。
 志島は尋ねてくる割に深入りをしてこない。
 それが逆に有難かった。

 「…っと、仕事なんでそろそろお暇します」
 「ああ」
 「おう、引き止めちまって悪かったな」
 人目につきにくいよう早朝に暁の家を出たものの、気付けば既に日が登りきっていた。
 適当に別れの挨拶を交わし、その場で暁を見送る。
 「…えっと、その」
 車のキーを取り出し、走ろうとしたところで立ち止まった。
 「記憶の手がかりになりそうなもの見つけたら、会いに来てもいいですか?」
 「…見つかれば、な」
 次に探すのは暗殺組織に関する事だ。その手がかりを暁が見つけられるとは思えない。
 それでも彼にまた会うことになる。そんな予感がするのは、龍輝という接点があるからだろうか。

 暁は屈託のない笑顔で返事をし、意気揚々と仕事に向かった。

 * * *

 十月二十日。

 龍輝から聞いた過去のリオはおよそ推測通りのものだった。
 とはいえ彼が知っているのは自分が死ぬまでのもので、リオの失った記憶全てを網羅してはいない。あくまで彼は彼であってリオではないのだから。
 「…理解はした」
 だが、実感はない。
 客観的事実を語られただけの今は『他人事』の気分であり、リオ自身の中で閉ざされた『記憶の扉』は開かれていないのだ。
 それはまるで、シュレディンガーの猫に似ている。
 (実感を得るには、自分の目で見て、確かめるしかないのだろうな)
 頭がぼんやり痛む。
 「自分の目で、か」
 寝転んだまま首をまわし、簡易テーブルの方に手を伸ばす。
 乱雑に置かれた物の中に混ざった唯一の私物を手繰り寄せると、リオはそれを翳して眺め始めた。
 かつて龍輝に譲り、その後暁が持ち帰り保管していたデザートイーグル。『Nacht』と彫られたそれだけは、確かに自分が使っていたという確証と実感がある。

 その銃で、数えきれない程誰かを葬ってきた事も。

 「…あんたが死んでから、俺はどこで何をしていたんだろうな」
 呟いた問いに答える声はない。
 実感の持てない自分の『記録』と、未だに何一つ手がかりのない空白期間。
 果たして自分は、取り戻したいものを取り戻せているのだろうか。
 その不安が、リオを焦燥に駆り立てる。
 (リオ、何度も言うが僕は)
 「記憶が消えないあんたに何が解る」
 焦燥は妬みにすり替わり、半ば八つ当たりのように吐き捨てる。
 そのまま勢いよく起き上がると、リオはテントの外に出て行った。

 「お、もう行くのか?飯持ってきたぞ」
 テントの外に出ると、丁度志島が買い物袋を下げて帰って来るところだった。
 「今日は平気です。またしばらくぶらついてきますから」
 「そうか。無茶すんなよ」
 軽く頭を下げて横を通りすぎると、志島に呼び止められ振り返った。
 「またやばいところに行くんだろ?これ持ってきな」
 振り向きざまに投げられた物を受け取り、掌に収まったそれを確かめる。
 革のケースに納められた刃渡り十センチ程のナイフは古めかしいが、その刃は鋭く研ぎ澄まされていた。
 「俺が昔よく釣った魚捌くのに使ってたやつなんだけどな。今はこんな身で釣りなんて忘れちまって無用の長物だ。年季が入ってる分、ちっとはお守りになると思うぞ」
 「志島さん…」
 研ぎ澄まされた刃が、最近までまめに手入れされていた大事なものであることを物語る。
 「…できるなら、これを使う事なくお返ししたいです」
 リオはもう一度頭を下げると、振り返らず走り出した。

 * * *

 志島から受け取ったナイフを手に、リオは海に近い廃ビルへ向かった。
 五年前の冬に放火で焼けたという廃ビルには黒い噂があった。そこがかつて暗殺組織のアジトだったと聞いたリオは、何かしらの手がかりを求めてやって来たのだ。
 潮風で風化が早く進んでいる廃ビルは既に倒壊し、瓦礫の山が雑然と積まれていた。
 五年経ってもそのままにされている理由として、撤去作業中の事故が多発が挙げられている。ここも水神村のように、見えない何かが彷徨っているのだろうか。
 リオにそれを確認する術もなければ、確かめられる誰かさんも返事がない。八つ当たりした手前、すぐに頼るのはプライドが許さなかった。
 「(…この音を、俺は知ってる)」
 向かいのビルの入口までのびた黒い跡を眺め、背後に聞こえる波の音に耳を傾ける。
 聴覚から呼び起こされるのは、ここで暮らしていた記憶。
 ただ寝るだけに殺風景な部屋に戻り、また誰かを殺めに出ていく。そんな灰色の記憶が、リオの空白のパズルに一つ嵌まる。
 「(あの頃は、取り巻く全てを憎いと思っていたな)」
 そう呟けたのは、例え灰色の世界でも、確かな記憶として思い出せたからだろうか。
 
 コンクリートの破片に燻る黒い煤の跡が火事の痕跡を残している中、その下に残る記憶を探すために瓦礫の山を踏んで辺りを注視する。
 「(…地面がやけに黒い)」
 ビルの周辺のアスファルトは本来の色より黒く、火事による煤と考えるには範囲が広すぎる。
 何より、その撒き散らされた形が液体を撒いた形状そのものであることが煤ではない事を決定的にさせていた。
 撤去作業中の事故の跡とも違う。まるで、そこに罠が仕掛けられていたような。
 気が付いたような自然な動きで後ろを振り返る。
 「―なあんだ、だるまさんがころんだしてたのにもう見つかっちゃった」
 ひどく大げさに、しかし心底残念そうに話す少女の声。
 振り返った視線の先には、声に違わぬ少女が拗ねた様子で座り込んでいた。
 小学生中ばくらいだろうか。見た限り、周囲に親はいない。
 「ね、ケビン。次はアイリ達が鬼だよ!」
 抱き抱えていた大きな熊のぬいぐるみに楽しそうに話し掛けると、少女はようやくリオに視線を向ける。
 ブロンドともとれる艶やかな髪にベビーピンクの大きなリボンを飾り、同じ色のジャンパースカートを身につけた少女は端から見るとお伽の世界の住人に見える。
 淡い青を湛えた瞳は無垢な子供を印象付け、絵に描いたような愛らしさがあった。
 「私ね、鬼になってつかまえるの得意なの。お兄ちゃんもすぐにつかまえられるから、がんばって逃げてね?」
 愛嬌のある笑顔で遊びに誘う少女の言葉に首をふり、リオは冷たい声で一蹴する。
 「可愛い素振りで惑わせても無駄だ。見た目はごまかせるが殺気まではごまかせない」
 懐古の眼差しは消え、鋭利な眼差しに変わる。
 少女はむくれた顔でリオを睨んだ。
 「いきなりそんな事言うなんてレディに失礼な人ね。もうちょっと礼儀のある人かと思ってたのに残念だわ」
 「遊ぶとも言ってない相手と勝手に遊び出す子供も躾がなってないな。自分から名乗りもしない奴と遊ぶつもりはない」
 見下した挑発に乗せられ、少女は怒りを露にして喚きだした。
 「じゃあ、名乗れば遊んでくれるって言うのね!いいわ、私はアイリ・シュヴェルタ。お祖父様と篭目の仇、取らせてもらうわ!」
 アイリと名乗った少女はリオを睨みつけると、手に抱いていた熊のぬいぐるみと対面する。
 「さあケビン、鬼ごっこの始まりよ。あのお兄ちゃんをつかまえたら私達の勝ち。今度はとびっきり強い人だからはりきっちゃおうね!」
 ぬいぐるみと目を合わせてウィンクをすると、アイリはぬいぐるみから手を離した。
 支えを無くしたぬいぐるみはそのまま地面に落下する―
 事はなかった。
 「―」
 ごく自然な動作で瓦礫の上に足をつき、作られた二本の足で自力で直立している。
 背中を向けたまま立っているぬいぐるみを、リオは言葉もなく見つめていた。
 「―Ein,」
 小さな声でアイリが音を発する。
 その声音は、つい数秒前に発せられた甲高い声とは全くの別物だった。
 低く唸るような音に応じて、目の前に立ち尽くしていたぬいぐるみが鋭く後ろを向く。
 表情は子供向けに可愛らしく縫製された熊の顔のまま。
 「っ―」
 切磋に、リオはその場を飛び退いた。
 瓦礫の粉砕する音と共に、リオが立っていた瓦礫が粉と化す。その中央には茶色い熊のぬいぐるみがうずくまるように座っている。
 「お前―」
 口を挟む間もなく、目の前に少女が現れる。
 「そうこなくっちゃ、鬼ごっこは楽しくないわ」
 顔面に衝撃が走り、強い力で後ろに飛ばされる。
 そのまま向かいのビルに置かれたゴミ袋の山に背中から着地し、背中に受けた衝撃とゴミの臭いにあてられ軽く咳込む。
 「本気で鬼ごっこするとね、皆すぐにつかまっちゃうからつまらないの。でもお兄ちゃんならたくさん遊んでくれそうだし、ケビンも楽しそうだわ」
 ゴミ袋の山を心底楽しそうな眼差しで眺めながら、アイリは明るい声で語る。
 「―でも、お爺様の遺言で早くつかまえなくちゃいけないの。だからね」
 残念そうに語りながら、少女はこの上ない笑顔を浮かべる。
 「お兄ちゃんとはここでさよなら。―ばいばい、ナハトお兄」
 ちゃん、と言いかけた口は呻き声に変わる。
 言葉の代わりに漏れた赤い液体が黒いアスファルトにこぼれ落ち、アイリは自分の胸元から突き出した棒状の物質を垣間見た。中心から僅かに左側に刺さるそれは鋭く光を反射し、口からこぼれた液体と同じものが境目から滲み出している。
 「…遺言に忠実なのは結構なことだ」
 ゴミ袋の山ががさがさと蠢き、中から顎と両腕を赤く腫らしたリオが現れた。
 「馬鹿力なところは変わらないな。それに、そろそろ子供と詐称するのも限界だと思うが。大方、今の歳は十七くらいじゃないのか?」
 アイリを睨む鋭い眼光は憂いを帯び、濃い青を湛えて溜息をつく。
 「死ぬ前に答えてもらおうか。何故まだ俺を狙う」
 腫れた腕を邪険に振るいながら、心臓にナイフが刺さった少女に一歩近づく。
 「…は、―分かりきっていることじゃない」
 逆流する血と痛みを堪えながら、アイリは言葉を続ける。
 「お祖父様と―リレイの、仇、だから…に」
 咳込みと共に、堪えていた血液が吐き出される。
 死を察した少女は落ちるように膝をつくと、にいと笑ってリオを見遣る。その笑みはどこか勝利を得たような優越感に満ちていて―
 「―Hus.」
 呪いに満ちた声を残し、アイリは崩れた。
 肉塊となった十七歳の少女を見下ろしながら、リオは深く息を吐いた。
 歪んだ笑みのままリオを凝視する顔は、思い出した記憶の中では比較的新しい部類に入る。
 新たに思い出した記憶の引き出しからアイリと最後に会った頃を取り出して面影を重ねると、苦い顔をして一歩歩み寄った。
 「…あの時に、二度はないと言ったな」
 更に一歩進み、胸に突き刺さったナイフを引き抜く。
 人肌の温もりが残る血で染まったそれの平面を指でなぞり掬い上げると、同じ手の親指に乱雑にこすりつけて揉み消す。
 水より粘り気のある赤い液体は手に張り付いて乾き、微かな不快感を残して水気を失った。

 * * *

 それは龍輝を組織に引き入れるより前の記憶。

 リオが今のアイリと同じ年齢だった頃。
 組織のボスに付き添い、ソロノームという姉妹組織を訪ねた。
 既に暗殺者として確かな実力を持ち、且つ、ボスのお気に入りとくれば、周りにとってどれ程憧れの立場に立たされているかを嫌でも思い知らされる。
 突き刺さるような視線は羨望という名の殺意に等しい。
 そんな様子を、リオは彼等を狂信者と例える以外に言葉は浮かばなかった。

 煙草が燻る室内で最初に目についた人影は、奇妙に浮いた存在だった。
 幼い少女は愛らしくリオに笑いかけ、自分と同じくらいに大きな熊のぬいぐるみを抱き抱えてとことこと歩み寄ると、服の裾を引っ張り催促する。
 「―わたし、アイリ。おにいちゃん、あそんで?」
 それを見たボスは向かいに座る老人と話し込んだ後、リオに遊ぶよう促した。

 それは遊びという名の手合わせだった。
 ふわふわな生地で被われた覆われたぬいぐるみは一瞬で鉛のように硬くなり、重い鉄槌を下してはまた柔らかな物質に変化する。
 内蔵に響く程鋭く重い一撃と引き換えに、リオは少女を仕留めて死の宣告を下した。
 『二度はない』と。

 それが、幼馴染と呼びたくない幼馴染、アイリ・シュヴェルタとの記憶。
 リオを気に入ったのか、彼女は幾度となく『遊びに』やって来た。

 暗殺組織リレイ―リオが属していた組織が消える、その日まで。

 * * *

 「……お前がきっかけになるなんて、皮肉なものだな」
 乾いた血を見つめ、誰に言うわけでもなく呟いてみる。
 回想から抜け、視線をナイフから瓦礫に転がる死体に向ける。
 奇怪な笑みを浮かべたまま動かないそれに、リオは何の感情も浮かばなかった。目の前に落ちている瓦礫と変わらない、一つの無関心な光景に過ぎない。
 何も感じない事が暗闇の組織の人間だった事を何よりも示しているようで、そう認識した自分にリオは苦い感情を抱いた。
 それこそが、自分の取り戻したかったものの一つだったにも関わらず。
 「(―だからお兄ちゃんは甘いのよ)」
 くすくすと笑う声が微かに届き、物思いに耽る束の間の時間が終わる。
 失われたはずの気配を察知し、顔を上げると―
 「(私たちが鬼だって、言ったものね?ケビン)」
 鋼鉄の熊のぬいぐるみが、目の前で殴り掛かろうとする姿がそこにあった。

 ゴツ、と鈍い音が反響して静止する。
 「(―ぁ)」
 息と共に吐き出す音は、儚く消える。
 熊に似せた作り物は空中に高々と放り出され、くるくると回りながら落下した。
 鋼鉄のぬいぐるみは滑らかな弧を描いて背中を打ち、下敷きになった瓦礫はがらがらと音を立てて粉砕した。
 落下地点から数メートル離れた瓦礫の上には、うずくまったまま動かない少女の肉塊と―ぬいぐるみを蹴り上げた足を高々と上げたまま静止するリオがいる。
 「(なん、で)」
 「その速さは見慣れた。所詮子供しか騙せない道化師だな」
 息を整えるための溜息をつき、静かに足を下ろす。
 ぬいぐるみは粉砕した瓦礫の中から這い上がると、無条件に笑う顔をリオに向けた。
 「(道化師だなんて失礼ね。わたしはそんな汚い人種じゃないわ)」
 不自然に自立する熊のぬいぐるみから、怒りを露にしたアイリの声が返ってくる。
 「操る側が操られる側と同化した時点で道化と一緒だ。だがな、この世界では無機物に権利は与えられていない以上、今のお前は道化ですらない。意味を履き違えるな人形」
 これ以上語る気はないと言うようにかたく口を閉ざし、躊躇いのない動きでぬいぐるみに近付く。
 立ちすくんだまま動かないぬいぐるみは何も言わず、かたかたと小刻みに震えていた。
 「(…わた、しは)」
 機械的な音が洩れ、綿がちぎれるとも破裂するともつかぬ音をたててぬいぐるみは弾けた。
 飛び出した綿は赤く濡れ、あらかじめ屑となって散るために作られたのか細かくちぎられている。ぬいぐるみを中心に霧散するそれは鼻をつく悪臭を放ち、咄嗟に退いたリオにたどり着く。
 「(ここまでか)」
 リオは口と鼻を押さえながらぬいぐるみに背を向けると、一目散にその場を去った。

 悪臭が届かない場所まで走り抜け、僅かに手の痺れを察知して立ち止まる。
 見ると、手の平に胡麻粒程の飛び血がついていた。
 その血が痺れの根源だと察したリオは服で血を拭い、赤く染まったぬいぐるみの方を振り返る。
 不幸にも近くを歩いていた何人かがぬいぐるみの見えない死角の道端で倒れていた。撒き散らされた猛毒は物質そのものより、臭いの方が毒性が強いと推測する。
 「… 他者を巻き込むやり方は、もはや暗殺者ではないな」

 無残に散ったぬいぐるみを最後に人として扱い、人として卑劣だと蔑んで、リオはその場を去った。
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