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6 - He is
光が、見える。
ゆらゆらと形を変えるそれは碧く、眩い。
水中から空を見上げて漂っているような、ふわふわした気分だ。
ぼんやりした意識の中、最後に見た現実の景色を思い出していた。
届かない灰色の空から落ちてくる雨。
奈落に引きずり込もうと足を掴む手の感覚。
狂喜の笑みを貼り付けた女の顔。
やはり、俺は死んでしまったのだろうか。
「……?」
ふと、遠くで話し声が聞こえた。
ゆらめく光と反対方向に意識を向けると、どこまでも底の見えない闇が広がっていた。
碧色の光を拒むように口を開ける様はまるで、深海に続く海底渓谷の入り口を見ているようだ。
その曖昧な境目に立つ白い人影が、足元の闇に消えていく光を眺めている。
僅かに瞬いた光が闇に吸い込まれたのを見送った人影は、俺がいるのを知っていた様子で顔を上げた。
「…あんたは」
「安心するといい。お前はまだ生きている」
白い狩衣に身を包み、夜叉の面をつけた男の声は聞き慣れた『彼』のものだ。
この男が『彼』ならば、聞きたいことは山程ある。
「あの女とグルで俺を殺そうとしたのか」
「それは断じて違う」
「だったらどうして黙ってた」
「それは…」
男はまた黙ってしまった。
が、今度はそう間を置かずに答えが返ってきた。
「…不注意で村の連中に捕まっていた、と言っても言い訳にしか聞こえないのだろうな」
「……」
納得させるに足らぬ理由しかないのか、あるいは何を答えようが納得しないと分かっていたのか。
首を捻ってそっぽを向いた様子は、仮面をつけていてもどんな顔をしているのかよく分かった。
「…もういい」
子供のように拗ねる男を見て、詰る気が削がれた。
真偽がどうあれ、確かめる術はないのだ。いくら咎めたところで意味がないだろう。
別の質問をしようと口を開けた時、ごぼりと泡が抜けるような音が轟いた。
その音を聞き、そっぽを向いていた男が何かを悟ったように水面の方を見る。
「時間だ」
何が始まるのかと同じ方向を見ると、遠くに見えていた光が近付いて来ているように見える。
「もうすぐ目が覚める。僕を咎めたいなら、一度頭を冷やして来い」
男が二言告げる間に、光は急速に近付き辺りを飲み込む。
俺は目を瞑り、返事をする暇もなくその洪水に飲まれていった。
* * *
目が潰れそうな程の光の洪水が引くと、見知らぬ天井が見えた。
「(―…室内?)」
視覚が正常に動いている事を認識し、続けて四肢に命令を下す。
手や足腰に触れる柔らかな布の感触と―
「!?」
生暖かい毛の手触り。
リオは勢いよく上体を起こしてそれを確認する。
左脇腹と腕の間に挟まるようにうずくまっていたそれもまた驚いた様子で、双眸を丸くしてリオを見上げている。
白黒模様の毛の塊は紛れも無い猫だった。
リオはしばらく猫を注視し、一方で丸くなったままぱたぱたと短い尻尾を振っている猫は不満そうな顔をしてリオを見つめている。
睨み合いは長く続かず、猫はにゃあと鳴いて再び顔を自分の腹に埋めて丸くなった。
だが、不機嫌を示す尻尾だけは振り続けている。
リオは見知らぬ猫から目を離し、今自分が生きているという事にひとまず安堵の溜息をついた。
遠くから階段を上る足音が聞こえ、リオが辺りを見回して部屋のドアを見たのと、ドアが開くのはほぼ同時だった。
「あ」
猫が侵入してきた痕跡か、元から半分開いていたドアノブは空回りして開く。
そのまま前に一歩踏み出して部屋に入ってきた青年の手には盆があり、二つのマグカップと平皿が乗せられている。
「たまり、人の布団に入るなよー」
青年が呼び掛けると、ぱたぱたと尻尾を振って丸くなっていた猫がはっとした様子で顔を上げて嬉しそうににゃあと鳴いた。
『たまり』とは猫の名前らしい。
「あんた…さっきの」
リオは青年に見覚えがあった。洞窟で出会った、あの青年だ。
その声に反応して青年の視線が猫からリオに向けられる。
「あ、よかった。体の方は大丈夫ですか?」
屈託のない笑みを浮かべて、青年は問いかけた。
リオは頷くと、青年はうんうんと頷いて盆を床に置いた。
高校生くらいに見間違えそうな外見とは裏腹に、その声質は成人男性のものである。若く見えるだけであり実年齢はリオとそう変わらないか、幾分年下だろう。
「ええと…、さっきって言いましたけど、洞窟で遭難してから三日経ってるんですよ」
間延びした切り出しの後、一度開いた口が紡ごうとした言葉は飲み込まれ、さっきという言葉にすり変わる。
リオは三日経っていた事実を流し、口唇から青年が閉ざした言葉を読み取って口にした。
「俺はあの時、あんたに名前を教えたか?」
「え」
青年は分かりやすい程に慌てた顔をして視線を逸らす。
互いに驚いているのは同じだった。
リオは青年が自分の名前を知っていたこと、そして青年は名前を口にしていないのにリオが看破したことに。
後者はリオ自身が持つ口唇術によるものだが、青年はその技術の名前さえ知らない。
「えーと…その、何て説明したらよろしいのかー…」
青年は助けを求めるような目でたまりを見遣るが、当のたまりは素知らぬ顔でリオにくっつき喉を鳴らしている。
「……名前を教えてくれたのは、龍兄なんです」
飼い猫に見放され観念したような様子でリオに視線を戻し、ぽつりと言葉を漏らした。
「龍兄というのは俺が慕ってた人なんですけど…もういないんです。リオさんは雰囲気というか…その辺が龍兄に似てて」
それで思わず龍兄と呼んでしまったと青年は白状し、気恥ずかしそうに頭をかいた。
「けど三日前、その龍兄に会ったんです」
「…会った?生きてたのか?」
今のリオに『龍』と名のつく知り合いはいない。
だが、記憶の底に沈む何かが、僅かに動いた気がした。
青年は静かに首を振り、話を続ける。
「一つお尋ねしますけど、リオさん、洞窟を出た後の事、覚えてますか?」
「洞窟を出てから…」
水神村に行き、自分の過去を知っている女に出会い、殺されかけた。
その時に、青年が見たであろう影達も見た。村人の怨霊たる彼らは何故あの女と協力し、自分を殺そうとしたのか、今のリオには分からない。
そもそもあの状況からどうやって生き延びたのかも。
「…多分、その女の人は、龍兄に殺された…?」
「…は?」
一人推理する青年の発言が分からず、思わず眉間に皺をよせて言葉を漏らす。
「あいや、多分です多分。…ただ、リオさんが洞窟に戻ってきた時の姿を考えると、そうなのかなって」
「戻ってきた?」
青年はリオの目を見て頷いた。
人違いがきっかけとはいえ、リオを覚えていた程記憶力の良い彼が言うのだから本当なのだろう。
「俺、内心めちゃくちゃびっくりしたんですよ!?全身血だらけで―」
青年の話はこうだった。
リオは返り血だらけで洞窟に戻ってきた。その時、目の錯覚と言うにはあまりにはっきりした『龍兄』の姿が重なって見えたという。
その仕草も話し方もリオとまるで違い、龍兄と呼ばれ肯定した本人は『リオの体を借りて話している』と言ったそうだ。
「俺、一度も名前言ってなかったのに呼んだんですよ」
俺の名前知ってますか?と尋ねられ、リオは首を横に振った。
「…それはつまり、俺にその龍兄という霊か何かがとり憑いて、あの女を殺して帰ってきたって事か?」
青年は一拍間を置いて頷いた。
「…突拍子もない話だな」
「ですよ、ね」
肩を落として俯く青年を横目に、リオはその話が本当なのか、頭の中で整理する。
青年が何をしに水神村に行ったのかは知らないが、そこで村人の怨霊に遭遇した。
村人の怨霊は自分達を殺した男に復讐する為、あの女と協力した。
あの女の目的は、リオと村人達の敵を殺す事。
だが、あの場所にいた人間は、リオと女だけだ。
『今度こそ消えなさい、ナハト。あなたの後ろにいる魂もろとも』
確かあの女はそう言った。
もしや、村人達が復讐しようとした『敵』、つまり水神村を潰した犯人は生身の人間ではなく、リオにしか聞こえない声の主―『彼』の事ではなかろうか。
そう考ると辻褄は合うのだが、いかんせん信じ難い。
とはいえ、嘘が下手そうな彼が怨霊を見て、実際に自分も見えてしまったのだから、その類の存在を認めるしかないのだろう。
『彼』は青年が慕っていた『龍兄』であり、村人達を殺した犯人でもある。その彼がどういう理由かリオの側に居て、女を殺した。
リオからすれば、廃村のいざこざに巻き込まれただけに見える。
記憶が戻れば、『彼』がリオの元にいる理由も、巻き込まれた理由も分かるのだろうが。
「あ、そうだ」
何を思い出したのか、青年は徐に立ち上がると、リオの正面に見える机の引き出しを開けて何かを探し出した。
「その龍兄に頼まれたんですよ。リオさんが起きたら俺の知ってる事を話せって」
そう言いながら引き出しの奥にしまわれた物を取り出してリオの元に戻ってきた。
青年が手にしていたものは一枚の黄ばんだ藁半紙と―
「―それは」
丁寧に包まれた布を広げると、それは完全に錆びて使い物にならない銃だった。弾は入っていない。
青年は両手でそっと銃を床に置き、藁半紙をリオに差し出した。
「三年前、俺が龍兄の住んでた場所に行った時遺されてたものです。水神村のいくつか手前のバス停から結構歩いた廃工場なんですけど、あの辺は水神村の事件以降いわくつきになっていて、近寄る人はまずいません」
レポート用紙サイズの藁半紙は四つ折に畳まれた後があり、折り目からすぐに破れてしまいそうな程折皺がついている。
青年はリオの脇で喉を鳴らしてうとうとしていたたまりを持ち上げて自分の膝の上に乗せた。
「ちなみに、たまりはその廃工場にいる猫が産んだ子供なんですけどね。最初から人に懐いてた辺り、多分龍兄が餌付けしてたんだと思います」
気持ち良さそうに目をつぶっていたたまりは腹を上にして座らされ、眠そうな顔をリオに向ける。
不満を目で訴えて来る猫を指で撫で、リオは広げられた手紙を手にとって文字を流し読んだ。
ボールペンで綴られた縦書きの文字は右肩上がりが特徴的で、達筆ではないが読みやすい。
内容は特定の誰かに向けて綴られたもので、何かを託すような文面は、死期を悟って書いた遺言そのものだ。
宛てられた相手が目の前にいる青年だというのは明白だった。
「―アキラ?」
「あ、それ俺です。瀬戸内暁って言います」
忘れていた事を思い出したかのように早口で名乗ってから、自己紹介してませんでしたねと苦笑いして見せた。
その後、暁からも話を聞いた。
龍兄こと『彼』―青井龍輝と呼ばれる男は、特殊な履歴の持ち主だった。
戸籍がなく、紙面上は存在しない人間として扱われている。
三十年近く前に水神村に生まれ、鬼子という因習に定められた子供として育てられていた。その境遇だけでも十分特殊だが、ある日村にやってきた男の手を借り、村を滅ぼしたのだという。
そんな殺人鬼を何故慕っているのか尋ねたところ、彼の出自を知ったのはずっと後の事らしいが、暁曰く『びっくりしたけど、助けてくれた人の出自は関係ない』だそうだ。
暁も大概特殊というか、相当大らかな精神の持ち主のようだ。
その後は手紙に綴らていた通り、龍輝は暗殺組織の人間に手を貸すと言って姿を見せなくなり、三年前にもう一度訪ねた折に遺された手紙と銃を見つけたという。
「―…俺が見つけた時に手紙はもうぼろぼろだったから、龍兄が本当に死んだのは多分、姿を見せなくなった五年前になると思うんです」
錆びた銃に目を落とし、暁はそう締めくくった。
リオも同じように錆びた銃を眺め、戸籍のないまま死んだ男の記録を反芻する。
水神村で女が語っていた昔話。あれは、龍輝の生涯の事だったのだ。
「…暁、だったか」
名を呼ばれた暁ははっきりとした返事を返す。
「はい?」
「多分、俺はその男を知ってた」
「多分…?」
「村で会った女が同じような話をした」
龍輝を知っている彼女がリオを知っていた。だが、彼女はもういない。
暁は怪訝な顔をして虚空を見つめている。その間にたまりが暁の腕を抜け出し、何故かリオの方に戻ってきた。
リオは手紙を畳み、布団に潜るたまりの背中を撫でながら、暁が抱いてるだろう疑問の答えを口にする。
「俺は龍輝の事も、その女の事も覚えていない」
思い出せない。
その言葉が、質量のある重みとなって二人に落ちてきたような気がした。
「…だから、龍兄は俺に頼んだんですね。きっと」
落ちてきた重圧を押し返し、暁がぽつりと言った。
きっと、間違いなく、龍輝はリオの思い出せない記憶を知っている。
だが姿の見えない声だけの存在から語られたところで、それが自分の記憶だと信じるなど出来るはずもない。リオに限らず、誰であろうと。
だから自分が実在した人間だという証明と信用を得る為に、暁に託したのだろう。
「随分、不器用な奴だな」
「そういう人でしたから」
その言葉を本人が聞いているかは、別の話である。
* * *
かくして、声の正体が青井龍輝という、死んだ殺人鬼だというのは分かった。
彼に直接話を聞けば早いのだろうが、見えないので今ここにいるのか分からないし、他人のいる手前、あまり変な行動はしたくない。
暁は気にしないどころか喜んで話をしたがりそうだが。
「そういう事情でしたら、俺に出来る事があれば手伝いますよ!」
余程のお人好しなのか、あるいは好奇心か。リオの記憶喪失を知った暁はそんな事を言い出した。
「気遣いはありがたいが…」
正直、巻き込むのは気が引ける。無くした記憶の扉が、警告を発しているのだ。
それを抜きにしても、暁の手を借りるには引っかかる記憶があった。
『組織を潰そうと企てていた暗殺者に手を貸し、最後の一人に撃たれて死んだ』
女が言った、龍輝の最期。
暗殺組織という仄暗い世界が関わっているのなら、暁に身の危険が及ぶのは間違いない。
「一応聞くが、龍輝が言った暗殺組織について何か知らないか?」
「うーん……」
腕を組み、顎に手を添えて考え込む暁。
「…すみません、何も知らないです」
早速力になれなかった暁はがっくり項垂れて落ち込んでいる。
龍輝が組織の事は話さなかっただろう事は予想の範囲内だ。外部に漏らしてはいけないという規律があったからだろうが、何より、暁を危険から遠ざける為に。
「あ」
何か思い出したのか、明るい顔で頭を上げる。
「確かこの銃、脱退を企ててた組織の人から受け取ったものだって言ってました」
暁は錆びた銃に目を遣ると、そっと手に乗せてリオの前に差し出した。
存外口は軽かったようだ。
龍輝が組織の人間から受け取った銃ということは、錆びた銃は物理的な手がかりであることになる。
「ちょっと貸してくれないか」
暁の了承を得て、差し出された銃を受け取った。
包んでいた布にまで錆が移ったそれはリオの手にすり付き、ずっしりと重みがある。
握り慣れた形と重さは、拘留所でリオが手にしたデザートイーグルとほぼ一致する。
「これは…」
手の中で色々な角度から眺めていると、人為的につけられた傷に気が付いた。
グリップに薄く刻まれた文字は小さく『Nacht』と書かれている。
リオはその文字に見覚えがあった。
「何か見つかったんですか?」
「なにか…」
視界の隅で首を傾げる暁に生返事し、刻まれた文字を鍵に記憶の扉を開けようとした。
「…っ!」
刹那、記憶を探ろうとする意思を拒むように頭がビキリと痛む。
思わず頭を押さえ、布団に落とした銃を暁が慌てて回収した。
「えっと、あの…?」
リオは頭を抱え込んだまま布団に顔を埋めている。
その様子から何かあったと察し、暁は銃をそっと自分の後ろに隠した。
「…すまない」
布団に顔を埋めたまま謝り、リオは深く溜息をついた。
「いえ……でもほら、一度に思い出そうとするのはよくないって言いますし」
少しずつ思い出していきましょうよと半ば無理に励まして、暁は手紙と銃を手に立ち上がった。
驚いて布団の外に出ていた猫は不安そうに鳴きながらリオに頭を擦り付け、正座して顔色を窺っている。
その頭を撫でながら顔を上げ、リオは正面に見える窓から曇天の空を見上げた。
視界の隅では暁が『あれ?』と言いながら引き出しをガタガタと鳴らしている。
「とりあえず今日は休んでって下さい。大丈夫そうでしたら明日家まで送りますから」
奥に何か引っかかっているのか、ようやく開いた引き出しの中身を軽く整理しながら暁は言った。
リオはその気遣いを心苦しく思いつつ、盆の上に乗ったマグカップの中身を飲む。
味がしない、と思い中身を見ると白湯だった。
「根無し草なんだが…」
「え!?じゃあうちに居ても」
「世話になってる人がいる。今はそっちにいた方が動きやすいんだ」
「あ、はい…」
何とか手紙と銃をしまった暁は何故か楽しそうに振り返り、そしてしょぼくれた。
「借りた荷物も返さないといけないからな」
忘れていた志島の存在を思い出す。
警察の目をかい潜りながら記憶を探すには、人の目につきやすい『家』という場所にいては見つかってしまう上、暁も隠匿罪で捕まる。
リオが訳ありの身だと知っていて、自分自身も訳ありだと言っていた志島の元にいた方が都合が良いのも事実だった。
恐らく志島は何日も帰らないリオを心配しているか、あるいは死んだと思われているかもしれない。
「借り物だったんですね」
枕元に置かれたバックパックを眺め、暁は納得した様子で頷いていた。
「帰ってきた時、乾かす為に一度中身を出させてもらったんです」
入っていた道具はどれも年季が入っていて、リオが持つにはいささか古すぎないだろうかと思っていたらしい。
盗品の可能性も考えたそうだが、それは全力で否定した。
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